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Japanese - Brethren

ドイツ・バプテスト・ブラザレン


ドイツ・バプテスト・ブラザレン(プリマス・ブラザレンと混同しないでください)は、1700年初頭、ドイツのシュワルツェナウで起こった小さな運動に端を発しています。

初期の数十年、この運動を組織し、指導していた主要人物はアレクサンダー・マックでした。もともとこのグループはドイツ敬虔派運動内で始まりましたが、彼らブラザレンの、新約聖書に基づく徹底した(キリストの)弟子としてのあり方は、次第に彼らの生き方をアナバプテストのそれに非常に類似したものへと近づけていきました。

Honduras microloan ゴットフリート・アーノルドの著述を通した初代教会研究に基づき、ブラザレンは三回の浸礼形式(triple immersion)をとった洗礼を行い始めました。彼らのこうした浸礼のやり方ゆえに、彼らはその後一般にダンカ―派(the Dunkers:『浸す』を意味する動詞dunkから)と呼ばれるようになりました。ヨーロッパでの迫害により、18世紀に、ドイツ・バプテスト・ブラザレンは全員、アメリカ合衆国へ渡りました。この渡航は二つの主要グループに分けて行われました。――最初のグループは1719年に、そして次は1729年に発ちました。

ブラザレンははじめのうち、ペンシルバニア州のジャーマンタウンに落ち着きましたが、まもなくペンシルバニアの他の地域にも移って行きました。ブラザレン・グループのカリスマ的な信者であったコンラード・ベイセルは、主要グループから分離し、エフラタ・コミュニティーを建て上げました。

Honduras microloan 18世紀から19世紀の間に、ブラザレンの多くは西部に移っていったため、今日、彼らの集会は(南部と南西部の州を除く)全州に存在しています。1800年の後半、ブラザレン運動は以下の三つの主要グループに分かれました。

1)《保守ドイツ・バプテスト・ブラザレン》("Old Order German Baptist Brethren")として知られる保守的な信仰の立場に立つグループ、

2)《ブラザレン教会》("Church of the Brethren")として知られる穏健派、

3)《ブラザレン・チャーチ》("Brethren Church")と呼ばれているリベラル派です。

Honduras microloan 1926年に、2)のブラザレン教会の中の保守的な信者たちが分離し、《ダンカー・ブラザレン》と名乗るようになります。今でもブラザレン教会の中に、聖書信仰に立つ保守的な信者が存在するにはしていますが、今日、保守的なブラザレンの信者のほとんどは、1)の《保守ドイツ・バプテスト・ブラザレン》および、《ダンカー・ブラザレン》のうちに見出すことができるといえましょう。

《保守ドイツ・バプテスト・ブラザレン》は、毎年、聖霊降臨祭の時期に、全国規模での年会を開きます。ブラザレンはこの年会に出席するため、合衆国の至る所からやって来、そこですばらしい交わりの時をもちます。またこの年会で、さまざまな教会の問題や、ライフスタイルの問題等に関する決定が出されます。

Honduras microloan ここに載っている写真は、そういった年会の際に撮ったものです。服装をみると、ドイツ・バプテスト・ブラザレンはどことなくアーミッシュに似ているように思われるかもしれません。しかし、アーミッシュとは違い、彼らは車や電気、ほとんどの現代機器を使用しています。そうではありますが、彼らは伝統上、年会を大きなテント(ふつう、このテントはメンバーの農場の一角に設置されます)の中で行います。